2011年04月05日

情報難民、情報弱者3

前回は実際に起きたデマ事件を取り上げた。
この章で知って欲しかったことは、普通の人が発信する情報がこのような重大な「事件」に発展する可能性を持っていること。そして同時に刑事責任を問われる可能性を示唆した。
つまり、我々が何となくやっていることにも他者へ大きな影響力を及ぼす力があることを自覚することだ。
極めて当たり前だが、こうしてアップされるブログの記事はインターネットである以上、どこの誰が読むのかわからない。
問題なのは「何故この人はこのようなことを書いたのだろう」と考えることだ。本を読むときと一緒で「行間」を読まなければ本質には迫れないのである。

ここまでは「個人による情報発信」を扱ってきた。その中で、情報の真偽を確かめる方法として「信頼できるソース」の確認を書いた。個人が書くものは、その道のプロでなければ往々にして個人の潜在意識まで含める思想を反映して書かれると考えるべきだろう。
入ってきた情報を元に咀嚼する段階で思想のバイアスが掛かるのは避けようがないと言える。
ならば、情報発信のプロ(一般メディア)にはそのような思想のバイアスは存在しないのだろうか?

朝日新聞社「AERA」がすっかりカストリ雑誌化か。残念。

情報難民、情報弱者3


メディア・リテラシー

このシリーズは簡単に終わるような内容ではないと思っている。ただこの時期に書くのが最適なんじゃないか、というのも他方でありしばらくお付き合い願いたい。
この写真は雑誌AERAの3月28日号表紙である。
この表紙とコピーに対して物議を醸し出した。確かにこれは酷い。
リンク先を読んで頂くとわかるのだが「ここまで露骨」だと呆れてしまう。
この批判に対するAERA編集部の謝罪文は以下の通りだ。

AERA今週号の表紙及び広告などに対して、ご批判、ご意見をいただいています。編集部に恐怖心を煽る意図はなく、福島第一原発の事故の深刻さを伝える意図で写真や見出しを掲載しましたが、ご不快な思いをされた方には心よりお詫び申し上げます。
編集部では今回いただいたご意見を真摯に受け止め、今後とも、様々な角度から全力を挙げて震災報道を続けていく所存です。最後になりましたが、被災者、関係者のみなさまには心よりお見舞い申し上げます。


この文章はどこにあるのかというと右フレームにあるTwitter上である。これだけ大事なことをつぶやくという神経もどうかと思う。普通ならトップページに別枠で掲載しないだろうか?
僕は別にこの雑誌に恨みがあるわけでもなんでもない。申し訳ないが、今から書きたいことの悪い例としてAERAさんに出て貰った。
この章のタイトルはメディア・リテラシー。
この意味は情報メディアを主体的に読み解いて必要な情報を引き出し、その真偽を見抜き、活用する能力のこと。
先にも書いたが、記事を書く記者にも思想なり考え方がある。また得られたニュースソースの発信地による違い、様々な背景や事情などによって誇張や嘘も出てくる。このようなことによってメディアの発信する情報にも偏りがある。こういう情報を鵜呑みにしていたのでは、受信者は不利益を被ることがある、と理解する必要がある。そのため我々メディアを利用する者は、
情報の正しさ
情報の偏り
情報の意図・目的
これらについて注意深く読み取り、情報の取捨選択をする能力が求められるのである。
恐らく私たちが良く知る嘘や誇張の代表例は大本営発表であろう。大本営発表は太平洋戦争において合計846回行われた。初期は現実通りの報道を行っていたがミッドウェー海戦の敗北を機に損害の過小報道が目立ち始め次第に勝敗すら嘘を報道するようになった。その後、海軍の上層部にすら正確な情報は入らなくなり、作戦立案の大きな障害となって行くのである。戦争中で報道統制が布かれていたこともあり、終戦まで日本が負けていることを知らない人は少なくなかった。
ここでは戦争について論議する場ではないがもう少し話す。
反面、この大本営発表に疑問を感じた人々もいた。彼等は何故そう感じていたのだろうか。無論その中には現役の軍人もいたが戦争経験者にしてみれば、ずっと勝利ばかりの戦争などあり得ない。そういう既存事実があった。だから違うのではないか、こう考えた。つまり「内在的チェック」だ。
ただ時代的背景からいってそれを声高に言う訳には行かなかっただろう。
もうひとつの例。
北朝鮮に関する報道も裏付けにほとんど手段がない(一般人には皆無)
日本海を隔てたお隣さんだが全く情報がない国だ。そういう中で報じるマスコミの情報だけがこの国を知る手立てだが、これにもし「強力な意図」があれば我々は作られたイメージを簡単に刷り込まれてしまう。
こういう体制の違いによる報道の相違は常にある。冷戦時代、西側諸国は西側諸国からの目線で報道するし、東側も同様だった。ソ連が崩壊する直前までワルシャワ機構の軍事力を脅威と考えていたが、蓋を開けてみれば時代遅れで全く取るに足らない存在だったのである。
政治的背景のみによって報道に偏りがあるだけではない。立ち位置の違いによる見方が変わると言う事も変わってくるのである。

感じたことは正しくても、それが全てを言い表していないこともある。それを個人の感想という形で検証してみたい。
Aというカフェがあったとしよう。Bさんは口コミで美味しいと聞いたので行き食事をした。しかし、Bさんはそれほど感動しなかったばかりか悪い印象を感じた。それを早速、ブログで書いた。

今日、ネットでも美味しいと噂のAに初めて行った。
お店の雰囲気はオシャレで素敵。期待は急上昇。
でも、席についても水も出なければ注文にも来ない。もう10分以上待たされてる。
できるだけ早そうなオリジナルカレーを注文。
待ちに待って、ようやくカレーが。
でも、正直なとこ期待外れかな。


Bさんが感じたことには間違いない。これだけを読んだ読者はカフェAに対して良い印象より悪い印象を持ったとして不思議ではない。
同じ日にCさんもカフェAに行き、感想を書いた。

初めてAに行きました。
お昼時を外したのに凄くお客さんが多い。お店は夫婦で切り盛りしてるみたいだけどバタバタしてる。
通っていくときに奥さんが「すみません」て感じで私に目で合図して行った。
自慢のオリジナルカレーを頼んだんだけど、自慢するだけに美味しいです。
ホテルのレストランとかとは違うけど、スパイシーで手間が凄く掛かってる感じ。


BさんとCさんの意見にはかなり温度差がある。両者ともに率直な感想だがこういう場合どちらかの意見だけを良しとすべきではない。
もしかするとこの店はオペレーションがダメダメなのかも知れないし、味は素朴だが洗練はされていないのかも知れない。BさんとCさんの味に対する基準というのも、この記事だけでは判別するだけの情報がない。両者の記事から判断できることはこの日の店が忙しかったという事実だろう。
しかし「評判店」=「お客が多い」と考えるのは注意が必要だろう。直近で広告を出しても客は増えるし、その日だけ近くで大きな催し物があり客が流れている可能性もあるからだ。
少なくともBさんもCさんも待たされたことは間違いない。Bさんは10分以上と具体的に書いているが、Cさんは具体的な提示がなく何分待たされたか担保できない。
またBさんは待たされることに苛立ちを感じる性格ではないかと推測される。従ってBさんが味の評価を感情的に書いた可能性が否定できない。特にBさんは冒頭で店の雰囲気に触れ「素敵」だと書いているが、外観の良さがサービスの内容を反映するわけではないのに過剰な期待を寄せているかのような表記がある。
このように情報というのは常に書いた人の背景や思考などを見抜きながら判断しないと結果が全く違ってくることがある。
ここでは一般人が書いたと仮定して2つの感想を比較して考察したが、例えばスタンスが「経営者」や「料理人」などの店側サイド寄りの人間なら見方が違ってくるに違いない。
このように事象というのはひとつだが視点というのは幾つもある。いや、それを知る人の数だけ視点があると言って良いだろう。
メディアも新聞社なら朝日と毎日でも同じ報道にニュアンスの相違がある。元来持っている社風もあるが情報を記事にする時点で完全に人の意識を排除することは不可能で、少なからず反映されると考えるべきである。特に特集記事や社説では意見のウェイトが大きくなるために、新聞社や解説員なりの思想が露出しがちである。
また事実に対する思想だけではない。マスメディアも売れなければ食えないのであるから、売れるような刺激的で扇動的なコピーを付ける可能性がある。今回のAERAはその代表としてご紹介した。
防護服のゴーグル部分をアップにし「放射能がくる!」と赤字のコピーを付けている。これを見て、放射能を漠然と「怖い」と考える人々には相当なインパクトがあると考えられる。これが社会に与える影響がどれほどあるかは社会誌のAERAが認識していないなどあり得ないわけで「意図的なもの」を感じないわけにはいかない。
憲法には「思想・言論の自由」が保障されている。これは非常に大事なことである。戦争中の日本にその自由は許されなかった。
が、反面、マスメディアはその発言において社会に与える影響が大きい。その影響力は権力にも値しよう。
故に極力私見を加えず、偏らない情報を発信するよう心掛けるべきだ。
しかし、ここで例を上げた以外にも記者が全てを知っているということは現実的にあり得ないことであり、その知っている範囲を超えて記事にすることは不可能である。従い、偏りは必然的に生じるのである。情報化社会に生きる我々はその事実を理解し、情報を正確に評価し正しく利用するスキルを求められているのである。
さて、AERAの母体は朝日新聞である。この新聞社の大罪について述べて、今回は〆としよう。
先に、太平洋戦争に触れた。
私たちが学校で教わった歴史では軍部の暴走が戦争への道へ突き進む原因となった。大体このように教わったと思う。だが、これは真実ではない。
厳密に言えば軍部・産業・メディアの三者が協力して戦争へ向かわせた、と考える方が正しい。この戦争への是非となると簡単に終わらない記事になってしまうので割愛するが、戦前の少なくとも昭和6年までの朝日新聞は大阪朝日を見るまでもなく軍部批判を前面に打ち出した戦争慎重路線を走っていた。
ところが満州事変が起こると全く方向転換をしてしまうのである。その理由として朝日は「満州事変以降、太平洋戦争末期になればなるほど厳しさと細かさが増していった。新聞側は、その流れに強く抵抗できないまま、次第に迎合していく」とした。しかし戦争反対とは言えないまでも中庸の立場でいることはできたのであって、より踏み込んだ「迎合」すなわち「戦争協力」へ向かう理由とは考え難い。
また「右翼からの圧力」を受け暴力に屈した、との意見もあるが、それだけによって協力するのも合理的な理由となり得ようか。
新聞は戦前までの最大のマスメディアであった。この21世紀においても生き残っているメディアであるが、それまでの新聞というのは絶大な力を持っていた。丁度、朝日新聞が方向転換した時代に新たなメディアが登場する。それがラジオだ。
新しいメディアに対しては既存メディアは非常に敏感である。何故なら、新たなメディアによって既存メディアが取って代わられる恐れがあるからだ。ラジオの速報性は新聞を十分に脅かす存在だった。
結局、戦争協力路線への転換の原因は「そろばん勘定」を優先したからではないだろうか。
新聞というのは戦争で部数が伸びるからだ。現にその後協力路線になった毎日と朝日は猛烈に発行部数を伸ばした。彼等は紙面で国民を煽りに煽ったのである。そして向かわせた先は地獄である。
AERAの表紙を見て思い出したのは、この朝日の大罪なのだが、煽られた国民が全く思考停止して思うツボだったことの方が大罪ではないか。
重要なのは朝日新聞がプロパガンダになったことではなく、我々が常に冷静な目で見てチェック機構の機能を果たすことだと思う。
戦後の朝日新聞が「戦争責任」とか「戦争犯罪」などと終戦記念日の特集で書くのなら自身の批判をもっと掲載すればいいのにね。



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Posted by *clear* at 14:50│Comments(0)東北大震災
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