この日は勤務がなく、午後は伝票処理やら事務仕事をしていた。ちょっと調べ物もあったのでブラウザは立ち上げていたが、Excelで会計処理の作業をしていたので更新していなかった。
もう夕方4時を過ぎた頃だったか。
そろそろ夕飯の支度をしようかと思っていたところに携帯電話が鳴った。電話に出たが無音。
発信者は親だ。
一旦、切ったがまた電話が鳴って、出ると無音。
何をやってんの?と少し不愉快になった。
するとまた携帯が鳴った。
「あんた、大きな地震があったの知っちょんかえ」
「とにかくテレビ点けよ」
それだけ言うとまた切れてしまった。雑音だらけの音声からは「地震」と聞こえた。
大きな震災→電話に影響。そうか、それで電話が無音だったり切れたんだ。ムッとしたことを少し恥じた。
今日始めてテレビを点けると画面は佐伯湾上空の映像だった。
ヘリからの中継で「津波」と言っている。
関東とか東北という言葉も聞こえてくる。
「そんな遠い場所で起きた地震が九州にも影響するとはタダゴトじゃないな」
津波の高さは30センチとか言っているから、ココはまず問題ない。
ネット検索で情報を集めることにした。
Yahoo!もGoogleもトップページがすでに緊急災害モードになっていて、それだけで普通の地震ではないことが窺い知れた。
トップニュースの欄は震災関連で埋め尽くされている。
情報社会にいながらにして震災発生から1時間以上も情報をキャッチしていなかった。
これがネット社会の弱点かも知れない。
数字やらマップを見て、瞬間的に阪神淡路大震災と比較して倍以上の被害はあるだろうと予測。いやあるいはそれ以上か…
オレはちょうど10年前(2002年ごろ)震災の研究をしていた。目的は建築物の耐震構造設計の見直しだ。
その時に得た成果が頭の中を回り始めていた。
情報の混乱、デマ、詐欺、無用の救援物資etc
テレビでは津波が船や家を飲み込んでいく映像がループしていた。それらの映像は津波の威力をまざまざと見せ付けたが、それによって混乱することはなかった。むしろ冷静すぎるくらい普段と変わらない感情があった。
ちょうどその頃、相方が帰ってきた。
「大地震が東北であったっち?」
「ああ、今調べよるところ」
「明日のフリマどうしようか?」
「もちろん出る。こういう時こそ普通にせんといかん」
こう言っては失礼かも知れないが、直接被害のない人間はやはり対岸の火事でしかない。
そういう人間が直接被害を受けた人に成り代わろうとするのはムリどころか驕りじゃないかと思うのだ。
あえて訊く。
震災の映像を見て流した涙は本物だろうか。
なぜその涙は出たのだろうか。
もしかすると涙する自分に酔ってはいなかっただろうか。
そうした他者をみて流す涙はともすれば美談として考えられがちだけど、オレに言わせればそれは嘘だと思うのよ。
結局、ドラマや映画で感情移入して流した涙と何が違うんだろう。
もし同質の涙だとすればそれはかなり被災者に失礼なことのように思えるんだよな。だってそうだろ。
「お前たちに何がわかる!」
被災者にそう言われても仕方がないことだから。
オレが気持ち悪いというか何か違うと思ったのはそういうことだろう。
震災発生後、
最初にアップしたエントリにはこう書いた。
「正確な情報を正確に判断する、という作業が生き残るには必要だと思います」
考えていたことを端的に書いた心算だ。
しかし、ご存知のようにデマが出回り、ありもしない自衛隊の救援物資集めを呼びかけ、福島原発事故をチェルノブイリを引き合いに出し、放射性物質の心配がほとんどなかった九州で問題にし、無関係な北の食べ物を恐がり、物資の買占めをし、目に余ることが多過ぎた。
こうなるとただの祭で、他人の不幸をネタにしているとしか見えなかった。
多分、そういう事象が目に付かなければその後の一連のエントリはほとんど書く必要なのなかったものだったと思う。それどころか震災について書くことは単なるアクセスアップの手段のようで嫌だった。
3.11を境に人生観を変えた人々と同様に、オレも人への見方やココでのコミュニティそのものに疑問を持つようになった。
人と人がSNSで繋がっているなどという幻想は過去のものとなった。大体、それがどうしたというんだ。
インターネット社会とリアルな社会が全く同一であるはずなどないのだから。
議論を避けるのは大分の県民性なのか?
言っておきたいことがある。
とあるエントリを読んだ。
それは沖縄の米軍基地問題に対して沖縄在住民の目から見た素朴な意見だった。
しかし付いていたコメントは前フリの天気の話題に対してだった。これでは書いた本人も残念な気分だろう、と思った。有意義な意見の交換には至らないのが実にバカバカしい。
阪神・淡路大震災は95年1月17日に起こった。
今まで見たことのない災害で、非常に衝撃を感じた。
オレに神戸は友人や親戚がいなかったので直接的な想いはなかったが、華音にすれば母校のあったかつては住み慣れた街だからその衝撃は計り知れない。
幸いに仲の良かった友人たちは無事だったが、交友のなかった者の中には命を落とした者もいたことだろう。火災の酷かった場所に寮があり、火事で焼けてしまった。
当事者意識が強かった。
しかし、オウム真理教が起こした地下鉄サリン事件によって、わずか2ヶ月しか震災への気持ちは維持できなかったのである。
いつまで記憶に残せるか、とはこのときの反省を踏まえたものなのだ。
人は間違いを犯す生き物だ。
しかし、間違いを反省し学べない人間は、また同じ過ちを犯す。
「放射脳」なる言葉があるけど、沖縄に避難して青森の雪を恐がって反対した連中はまさにこれだろう。まったく問題にするレベルじゃないものを正当に評価できない脳ミソっていう時点でDQN確定だが。
こういうヤツは他のことでも同じような発想しか持たないから、何か負の報道があると過剰な反応しか示せない。BSEのときに牛肉は一生食べないとか言ってたバカがいたが、それと同レベルだろうな。
こんな脳ミソになるのも「おゆとり様」の弊害なんだろうか。いやいや、ずっと上の世代にも見受けられた事象なんだからゆとり教育だけの問題でもなかろう。
せっかく出た話題だ。少し続けたい。
これらの不安は飛行機と自動車のどちらが安全か、という議論に近い。
どちらの事故率が高いかは言うまでもなく自動車だ。飛行機事故は比較にならないほど低い。
では何故、飛行機に対して恐怖を感じる人がいるのだろうか。
飛行機は墜ちれば間違いなく死ぬだろうというのと、飛行機事故の方がニュースで大々的に扱われるから、悲惨な事故の刷り込みが大きいのだろう。
このように飛行機はリスクが小さいにもかかわらず、一度事故を起こすと重大な事故になるので安全対策が自動車の比較にならないほど厳重だ。
因みに自動車だって死亡事故は起きる。それを踏まえて普段から完璧な整備と点検をしているのか聞いてみたいものだ。
そのような飛行機に対する漠然とした不安を持っていながら、そういうヤツも飛行機を利用したりするのだから「一体コイツの不安とはなんなのか」と思う。
世の中にリスク0のものなど存在しないことを考えたら、じつに下らないということができるだろう。
しかも自動車の場合、スピードを出さなければ事故を起こさないのでもない。飛ばさないくせに事故だけはよくするヤツも世の中にはいるもんだ。
むしろ飛ばす方がリスクを抱えている分、漫然と運転しなくて事故しない、なんてシャレにならない話もあるくらいだから。
原発も事故リスクは非常に小さいのだが、事故を起こせばリスクが大きいから安全対策が厳重になされているに過ぎない。あの揺れの中で制御棒を挿入し原子炉を停止できたことは優秀だと言わないでどうするんだ。それよりもお隣の国の原発は一体どんな管理になっているか、そちらの方が我々への大きなリスクとは思わないだろうか。
こいつは問題のすり替えじゃないよ。
日本海を挟んでるだけだからな。
この日、あの震災について考えたりエントリを書いたりしている人は多いと思う。
多くの人は優しい言葉で書くのだろう。
でもな。
オレはオレのやり方があるんだな、と震災の後思った。
世の中にはヒール役も必要なんだと。
万人受けすることを優先すると、本当の核心部分を書けないことも多くなるんだよ。本音を書けるのもネットの特権だったとオレは思うんだな。.
今も行方不明者は3000人以上。
被災者が本当の涙を流せるのは、もう少し先なのかも知れない。